§ 占星学の歴史要約 §     トップに戻る

〔瀬尾泰範『来るべきアクエリアスの時代』(1985年潮文社)より転載〕

 占星術の起源は大変古い。紀元前3000年頃,チグリス・ユーフラテス川下流域のメソポタミア地方に築かれたシュメール人の都市国家において,既に占星術の原形はあったようだ。それは,古代バビロニアの,そして世界最古の英雄叙事詩「ギルガメシュ叙事詩」に,占星に関する記述があることから推定される。

 この頃から長い間にわたって占星術は,農業牧畜のため季節や方角を算定する「自然占星術」と,国家の運営や軍事のため王侯貴族が利用した「政治占星術」が主体であった。

 古代の人々は,夜空の星(恒星)の規則的な運行に従って季節が変化し1年のリズムが刻まれることに驚異を覚えたに違いない。そして人々は,天から地上を操作する神を思い神話を創り出し,星々には星座をあてはめた。また星座とは違った運行をする太陽,月と,時に逆行など不思議な動きをする五惑星(水星,金星,火星,木星,土星)に神秘を感じ,それぞれが“星神”として地上の出来事を左右すると信じた。

 紀元前625年に新バビロニア帝国を打ち建てたカルデア人は,天文観測に優れ,占星術の研究と発展に尽くした。誕生日時,場所によって個人の一生の運命を占う「人事占星術」はこの頃確立されたと言える。これが現在の「ホロスコープ占星術」につながっている。

 カルデア人によって体系的に整備された占星術は,ペルシャからギリシャに引き継がれ,星座はギリシャ神話と結びつけられるようになった。また占星術は,自然探求精神の旺盛なギリシャ人に天文学の発展を促した。

 エジプトにおけるプトレマイオス王朝を滅ぼしたローマ帝国のアウグスツス大帝の時代に,占星術は一つの流行になった。その後,歴代のローマ皇帝は専属の占星術師を召し抱え,自分の運命を占わせては対策を立てていた。

 紀元2世紀,アレクサンドリア天文学の全成果を収めた「アルマゲスト」を著したエジプトの天文学者プトレマイオス(トレミー)は,占星術の権威でもあった。カルデア占星術の集大成である彼の著書「テトラビブロス」は,後世の占星家に大きな影響を与えた。

   西洋占星術はその後何人かの占星家によって基礎が固められ,アラブ・サラセン文化を経て,12世紀にはキリスト教文化圏のヨーロッパに入りこんだ。ローマ教会の反対にもかかわらず,占星術は13〜15世紀の間に非常な勢いでヨーロッパ全土に広がっていく。この頃の有名な占星術師では,先に述べたノストラダムスやスイス生まれの医学者,自然科学者,神秘哲学者のパラケルススがいる。

 16〜17世紀に近代天文学の土台を作ったニコライ・コペルニクス,ティコ・ブラーヘ,ヨハネス・ケプラーらも優れた占星家でもあった。実はこの時代に天文学を発展させる原動力となったのは,できるだけ正確な星の位置を知って占星術の判定をしてほしいという王侯貴族からの要求であったのだ。

 16世紀イタリアの大数学者カルダーノや17世紀フランスの大数学者であり哲学者であるデカルトも占星術に肯定的な立場にあった。さらにドイツの偉大な文豪ゲーテや劇作家・詩人のシラーも占星術を大いに信奉していた。

 天文学の発達により,1781年には天王星,1846年には海王星が発見される。それらも含めて,太陽,月,惑星の黄道上の正確な位置を未来にわたって記した天文歴が発行されたが,それを基にして判定を下す術の方はまだ旧態依然であった。19世紀末に近代占星術の祖であるイギリスのアラン・レオが現れ,多数の占星術のテキストを出版し,占星術の新しい判定法を示した。

 20世紀に入り,チャールズ・カーター,マーガレット・ホーン,ラインホルト・エバーティンらによって,統計学も取り入れた現代占星術の基礎が築かれる。また1930年に発見された冥王星の性質と影響力については,多数の占星術研究家の調査によりはっきりしてきた。

 さらに1976年,イギリスの研究家ジョン・アディーによって提唱された「ハーモニクス」という新しい判定法では,ホロスコープ(出生天宮図)の完全な数学的処理が可能となり,数理統計学の検定法と組み合わせれば,将来ホロスコープの確率的判断がされる時代も来るだろう。

 そして,占星術は心理学や精神医学とも結びついて,21世紀には人間科学の一分野として貢献できるであろう。なぜなら,西洋占星術の心理・性格・体質判断は,今ブームとなっている血液型判定法とは比べものにならないほど多彩で正確なものだからである。(以上『第2章 1.「水がめ座の時代」とは?』から抜粋)

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